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「傾いたヒールは歪みのもと」靴職人・長田ちひろさんに聞く、靴と体の深い関係

代官山で、2010年からオーダーメイド靴専門店「Bottega TraModa(ボッテーガ・トラモーダ)」を経営する、靴職人の長田ちひろさん。整形靴の知識を活かし、足に障害のある人や、外反母趾に悩む人など、さまざまな要望に応えて、美しく安定性の高い靴づくりを続けてきました。

「小さいころから靴職人を目指していたわけではないんです」と話す長田さん。その半生をお聞きしたところ、意外な過去の話が飛び出してきました。

シンクロ一筋だった10代

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代官山駅から徒歩5分の場所にある「Bottega TraModa(ボッテーガ・トラモーダ)」。



――長田さんは、イタリア留学から帰国後、2010年にオーダーメイド靴専門店「ボッテーガ・トラモーダ」を立ち上げたそうですね。小さいころから靴職人を目指していたのでしょうか?

長田ちひろさん(以下、長田) :靴職人を目指し始めたのは、20歳を過ぎてからです。10代半ばまでは、シンクロナイズドスイミング(アーティスティックスイミング)一筋の生活をしていました。



――シンクロを始めたきっかけは?

長田 :0歳から水泳を始めたんですが、小学2年生のときに「体が軟らかいから向いているかもしれないよ」と水泳の先生にすすめられ、シンクロを始めました。とはいえ、当初は遊びの延長で練習していたようなもの。

本気で取り組み始めたのは、ソロ・デュエット・チームという3種目で試合に出ることになった小学4年生のころです。当時の夢は、オリンピック選手でした。シンクロにはプロという道がないので、オリンピック出場後は、水中演技のあるショーに出演したいと考えていましたね。

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「オリンピック出場が夢だった」(長田さん)



――シンクロを引退したのは、何歳のときですか?

長田 :高校1年のときです。日本選手権に出場した後、引退しました。本当は、井村雅代さんがコーチを務めるシンクロクラブに移籍する予定だったんですけど...。心が折れてしまいました。



――その原因は?

長田 :クラブを移籍する前に、ナショナルBチームの日本代表派遣選手選考会に参加したんです。真冬で、ちょうどインフルエンザが流行っていた時期でした。参加者の半数ほどがインフルエンザに罹患しましたが、合宿最終日は早朝から病院に行って、点滴を打って、全員プールに入れさせられたんです。

でも私は、最終日の朝に発症したので、病院に行く時間がなくて...。39度6分くらいの熱がある状態で、最終日を乗り切りました。ヘロヘロの状態で、「もう二度とやりたくない」と思いながら演技していましたね。体が弱っていたことで、心も同時に弱ってしまい、引退を決めたんです。



――シンクロに情熱を注いできたことを後悔していますか?

長田 :今振り返ると、ハードな生活を送っていたと思いますが、後悔はしていません。小学生のころから、学校が終わったらすぐに着替えて、練習場に行って、夜9時頃まで練習をして...という毎日。土日は朝から夕方まで練習漬けでした。

シンクロのために、ジャズダンスや新体操も習っていましたね。10代のころにそういった日々を送ってきたからこそ、今も粘り強く仕事と向き合えるんだと思います。

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ハードな日々を乗り越え、靴職人としての今がある。

「足の悪い人が周りに多かった」ことが靴職人を目指すきっかけに

――高校1年でシンクロを辞めてから、靴づくりに興味を持つまでの経緯を教えてください。

長田 :シンクロを辞めた後、しばらくのあいだは燃え尽き症候群のようになっていました。母親から「どれだけ家にいるの?」ってよく言われていましたね(笑)。その後、大学に進学し、そろそろ就職活動という時期になって、やっと将来のことを考え始めたんです。

とはいえ、シンクロ時代にチーム種目が苦手だったこともあり、企業に入ることは考えませんでした。実家がアパレルショップを経営していたので、いずれ自分で店を持てるよう、何か手に職をつけたいと思ったんです。



――なぜ、靴に注目を?

長田 :足の悪い人が周りに多かったことが、理由のひとつです。靴業界のことは何も知りませんでしたが、足の悪い人でも安心して履ける靴を作りたいと思ったんですね。

大学4年生の春に「靴づくりをやってみたい」と母親に話したところ、返ってきたのが「イタリアに行きなさい」という言葉。急な展開に驚きつつも、1ヵ月後にはチケットを取ってイタリアに向かうことになりました。



――イタリアの靴学校に入学したんですか?

長田 :イタリア語を話せなかったので、まず語学学校に行き、靴工房で見習いを始めました。サンダルをメインで作っている、家族経営の工房でしたね。靴づくりを初めて経験し、おもしろかったので、一度帰国してお金を貯めてから、改めてイタリアの靴学校に留学したんです。

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靴づくりの基礎はイタリアの靴工房と学校で学んだ。



――イタリアから帰国してすぐに自身のブランドを立ち上げたのでしょうか?

長田 :いいえ。靴づくりの基礎をイタリアで習得して、帰国後は整形靴(足の状態に合わせて、医療目的で整形した靴)の勉強をするため、専門の学校に通いました。同時に、浅草にあるミスターミニットの工場で修理のアルバイトを始めたんです。オーダーシューズの店を開きたかったので、自分の手で修理ができなければと思ったんですよ。店頭ですぐに修理できない靴が運ばれてくる工場があり、そこでいろいろな靴の修理を学びました。

その後、ワーキングホリデーを利用し、職探しを兼ねて渡仏。フランス滞在時には、革靴ブランド「クロケット&ジョーンズ」パリ店の名職人であるディミトリー・ゴメス氏のもとに通っていました。パリ・コレクションなどを観る機会にも恵まれ、日本では味わえないたくさんの刺激を受けて帰ってきましたね。フランス靴やイタリア靴に負けない靴を日本で作り、再びヨーロッパを訪れたいというのは、ブランドを立ち上げたときからずっと持ち続けている目標です。

美しさと履きやすさ兼ね備えた靴

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「ヒールでも走れる」と評判が高いカラーオーダーパンプス。



――靴のメンテナンスってやはり大事なのでしょうか?「足に合わない靴を履くと良くない」と聞きますが...。

長田 :例えば、ヒールのバランスが1~2mmでも崩れると、膝や腰、骨盤の歪みにつながります。トップヒールと呼ばれるゴムの部分は、クッションにも滑り止めにもなっているんです。それが削れた状態で、金具が出たままカツカツ歩いていたりすると、体に無駄な力がかかってしまうんですよ。膝や腰の歪みがひどくなると、歯がずれてしまう場合もあります。

駅の階段などで、すり減ったヒールを履いている女性をよく見ますが、できるだけ早くトップヒールを替えてほしいなと思いながら見ていますね。



――お店を立ち上げて9年目ですが、足の悩みを持っているお客様からオーダーを受けることもありますか?

長田 :外反母趾や、足の幅が広くて合う靴がないなど、さまざまな足の悩みを持ったお客様がいらっしゃいます。関節リウマチのお客様がいらっしゃることもありますね。当店を訪れるリウマチのお客様は、おしゃれな方が多いんです。体のバランスがとりにくいので、履きやすさは欠かせない要素だけど、デザイン性のない靴は絶対に嫌とおっしゃいます。

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美しさと履きやすさを兼ね備えたボッテーガ・トラモーダの靴は、足の悩みを持つ女性にも支持されている。



――靴づくりをする上でのこだわりを教えてください。

長田 :靴職人として、まずは足をきれいに見せてあげたいという思いがあります。ボッテーガ・トラモーダでは、整形靴の知識を応用してパンプスなどを作っています。普段ヒールを履かない人でも、「この靴なら、1日余裕で歩ける」と、5cmや7cmのヒールをオーダーしてくださることもあります。

また、私は体があまり強いほうではなく、シンクロ時代は頻繁にケガをしていました。体に痛みがあるせいで、目の前のことに集中できなかったり、心までダメージを受けてしまったり...。そういったつらい経験も、今では糧だと思っています。「足が痛いから外に出たくない」という人の気持ちが、よくわかりますから。履くことでつらさを軽減できる靴、出掛けることが楽しくなる靴を、今後も作っていきたいと考えています。



<プロフィール>

長田ちひろ(おさだ・ちひろ)

2003年、イタリアに渡り、フィレンツェの工房で靴づくりの基礎を学ぶ。一時帰国後、2006年に再びイタリアに渡り、「Accademia Riaci」に入学。2008年に帰国し、オーソペディーシューズテクニック(ドイツで生まれた整形外科的な靴技術)を学ぶため「フロイデ東京校」で学ぶ。2010年、オーダーメイドシューズブランド「Mariage Mischia」立ち上げ、代官山にて「Bottega TraModa」オープン。日々、顧客の足の悩みと向き合いながら、靴づくりを続けている。



(取材・文:佐藤由衣/写真:西田優太)

※掲載している情報は、記事公開時点のものです。
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